虐待を受けて解離性障害になった私のブログ

悲惨な運命を生き壊れた女の話

お風呂

実家でお風呂にゆっくり入った事がありませんでした。


水道代など私にお金をかけたくないというのもあります


お風呂から無理やり引きずり出されました。


お父さんが仕事から帰って来た時、丁度入浴中だったので


母が「早く!」


風呂の扉を叩くのですが、私の身体は泡だらけ


気がついたら風呂の外に放り出されて階段の踊り場にいました。


もうお風呂に入るのは嫌だ


しかし別の日は「早く入れ!」怒鳴られます。


湯船の水は足が浸かるくらいの量しか知らなかった。


水を使わないようにして、


異常なくらいケチのせいで私は不潔になっていました


頭もベタベタしてフケだらけ手もブツブツ

痒い


学校の皆から私だけ机を離されていました。


菌が移るからと言われて

ゴミを投げられたり、唾を飛ばされたりの毎日で先生からも

嫌われて容姿を貶されました。


泣いたら、泣きおかめって言われました。


鼻水のクスン音に合せて音楽先生が指揮者の棒を振り回し演奏の合図が始まります。


この現状に耐えられなかったので、記憶が飛ぶ事が多かった。

ひもじい

私は40歳にして再婚できました。


お陰様で今まで体験したことがないくらいの


平和な日常を過ごしています。


過去を振り返る余裕が徐々にできて


ブログをかけるようになりました。


それでも この作業は辛く更新もゆっくりになります。




現在の配偶者と出逢ったのは彼36歳 私34歳


当時の私は元旦那との離婚調停が終わり離婚裁判と共有財産分割の裁判中でした。


離婚裁判中なので元夫からのストーカー行為から逃れる為 住所は不定となり


住まいは四畳半で天井は低く布団とネットぐらいしか物が置けない狭さです。


住所不定だったので身分証明書がなく30歳を過ぎた私には


ヘルパーの資格を修得して なりたかった老人ホームの職員に採用されず


個人病院でターミナルケアーの仕事を始めました。


慣れない夜勤に辛い裁判1人で戦っていました。


今までの人間関係を断ち離婚弁護士と職場関係者以外は接触しないように努めました。



あらゆるものに飢えていた私は人が食べ物に見えました。


今振り返ると恐ろしい状況だと思います。


戦時中と変わらない位なのでしょうか


私は裁判という任務があるから死なないようにしなければいけないので


人の肉で頭は占領されました。


今の配偶者は誰よりも美味しそうな肉にしか見えなかった。


結果はオーライでした。




食事は三食バランス良くが基本

そんな身体

前回の記事で母の話によると、私は妊娠しているのはずなのだが


違うタイミングで母は私に


「あまたは子宮後屈だからセックスが出来ない身体よ」


と言ってました。


そういえば診察台に乗るような格好を母にしたこともあるし


おじいさんが産婦人科医で待合室の医学書を読んだとかで


母親の口から最もらしく言われたので

私は三十過ぎ迄それを信じていました。


何故そんな話、信じるかって?母親から言われていたのです。


「貴方は逆子の帝王切開で生まれたから頭が弱いのよ」




最初の結婚から別居になり家族の監視がなくなった機会に


都会の大きい本屋で医学書の立ち読みをして子宮後屈について調べました。



私「なんか違くない?」



そこから私は産婦人科に行って診察を受け異常なしと見立てられ狂います。


離婚した元旦那は独特な性癖の持ち主だったので夫婦としての営みはありませんでした。。


話が前後しました


私は妊娠してエイズで死ぬはずなのに、一方ではセックスが出来ない身体って

母親に言われてどう感じたのでしょうか?無でした。


私は幼稚園から中学生までダブルバインドの攻撃がは多かったせいで


学校では完全なる緘黙症になっていました。